昭和53年08月25日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けことができるぞ。」
人間が助かると言う事は一体どう言う事であろうか。本気で考えて見なければいけないと思います。人間が助かると言う事はどう言う事だろう。健康でお金があって成程人間の助かりにはどうでも健康もいるし、お金もなからねければいけませんけれども、ほんなら健康だからお金もあるからというて、助かっておるとは言えないのです。教祖の神様もギリギリ人間が助かる事の為に、天地金乃神様のお頼みをお受けになられた。
願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせとこう。願う氏子におかげを授けて下さる事によって、神様をお互いに知る事が出来る。理解申して聞かせと、人間が助かる事のための理解である。人間が助かる事の為の話である。そういうお話の中に、この七十八節があるわけです。その七十八節には人間が、いよいよ助かっていく助かるだけではなくて、いうならば親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と、いよいよ代まさりのおかげが受けられるという話を、ここでは理解付けておられるわけです。
だから先ず何と言うても、神の大恩を分かると言う事が先決であります。神の大恩が分かり神様のお心が分かり、神の大恩が分かるようになると、おのずと人間は出来てくる。いや神の大恩が分かると、いよいよ改まらずにはおられない、研かずにはおられない。真の人間を目指さなければおられない。真の人間にならなきゃならん。改まらなきゃならん。研け研けというのではなくてね。神の大恩が分かるようになると、分かってくるともう研くなと言われんでも、研かずにはおられんのである。
改まれと言われんでも、改まらずにはおられんのである。そこから心がいよいよ、一年一年有難うなって来るという。そういう仕組みになってるんです、教祖金光大神の御教えというのは。そこのところを私は一番適切に教えてあるのが、合楽のように思うんです。いわゆる合楽理念だと思うんです。人間が助かることのためのだから宗教だと。合楽理念は、助かりの理念と言われるのも、そういうわけなんです。人間が助かることのための宗教金光教は。助かろうと思う信心をいよいよ深めていく
。そこに行き当たるのが人間の罪業。いうならば罪、けがれというかね。行き当たるのがいよいよ助かることのために助かられんのは因縁。因縁があるから助かられん。罪があるから救われないという、結局救われないと言う所に到達するのが、過去の宗教だったと思うね。だから、最近では、合楽の金光様のご信心を、宗教以前の宗教だと言う風に表現されるわけです。助からなければならないはずの信心が、いよいよ極めて行こうとすると、助かることが出来ない
。因縁にぶっつかる。原罪罪にぶっつかる。もう助かりようが出来てないのが過去の宗教だと、だから言うてもまあ私は過言じゃないと言う風に思うんです。その点神様は罪とか、因縁とかと言う事は仰ってない。ほんならよしそれはあるかも分からんのです。けれどもそう言う事は人間が一度、本気で助かろうという気になれば、有難う楽しゅう助かっていけれる手立てを説いてあるのが、金光大神の道である。行き詰らんのです。それは御道の信心は、一年一年有難うなって行くと言われる。
一年一年有難うなって行く道を体得していくからである。そしてならいよいよ、分かるのが天の心であり地の心である。いうならば天の心を地の心を分かる。いうならば親の心が分かる。だからその親の心に、沿わずにはおられなくなってくるというのです。そこに、天地と人間とがこう相対する。一緒になれれる手立てが説いてある。いうならば天地と、小天地であるところの人間。親神様と言うなら子神様が一つになれれる。初めて親神と子神との出会いと言う事になる。
そこから親の事は子が頼み、子のことは親が頼み、あいよかけよで立ち行く道が開かれてくる。初めて神の大恩が分かってくる。親の恩が分かってくる。親の恩に報いずにはおれないという信心が生まれてくる。そういう信心からですね、ここでお互いが一番願いとするところの、神の大恩を知れば無事達者で、子孫も続き、身代もでき一年まさり代まさりのおかげが受ける事が出来る。まああの私は思うんです。
いつもこの思いますこと、言いますことですけどもね教祖の神様の教えというものは、私共がね言うておられることを実証していく。その御教えの一つ一つを実証していく。皆さんが毎日奏上しておられます祈願詞ですね。今あれは祈願詞ですかね。あの通りにおかげをいただいていかにゃいけんのです。あの通りにおかげを頂いておるのは、合楽だけじゃなかろうかと、私は思うくらいです。言葉にああいう立派な言葉が、いうならば綴ってあるわけです。
だからあれを読み上げるだけではいけん。その通りのおかげが頂かれなければ。言うなら、この御教えと言うのが、御教え通りにおかげを頂かなければ。それにはね、私共が中途半端な助かり。病気を治して下さい、商売繁盛させて下さいという願いではなくて、人間の本当の助かりとはと言う所に焦点を置かなければ、やっぱり金光教でも同じことになるのです。ここには三代続いたらと言われるけれども、三代、四代続いてもやっぱり駄目です。今日私が申します人間の真実の助かり。
それはどう言う事かというと、神の大恩を知ると言う事。それをもう少し砕いて言うと、天の心地の心を知ると言う事。それを例えば実感として知らせられる、実感として分からせて頂く為に、天地日月の心になること肝要だと教祖は仰っておられる。その天地日月の心になること肝要だと言う事が、もう大変難しいことのように思うておったけれども、その気になったらそうではないです。楽しいもの有難いものそして愉快にまでなってくるもの。天地の心がひたひたとこちらの心に通うてくる。
それをここでは天地のリズムという。リズムに乗った生き方天地のいうならば、天地と人間との一つの調和祈願詞にもございますでしょう。その調和を保っていくと言う事は、こんなに楽しい事はない。口には言うておっても楽しゅうないならば、天地との調和が崩れておるからなんだ。天地との調和天地との係わり合い、繋がりというものがいうならば合楽することになる。神様も喜んで下さる、私共も喜べる世界が開けてくる。だから結局その目的がね、真実人間の助かりとは。
そりゃ金がありさえすれば良い。いや人間の本当の助かりとは健康でありさえすれば良い。ほんなら健康になってみて、お金を沢山持ってみて分かることは、人間の助かりというのは健康だけではない、金だけではないと言う事が分かる。人間の助かりと言う事はどう言う事かと。心が助かることだ。まあいやそれまでなんだけれども、ほんなら心が助かる手立てが、天地の大恩を知ることだと言う事になるのです。
天地の大恩をほんなら本気で一つ、天地の大恩を分かろうと言う所に、ほんなら先ず天の心が分からにゃいけん、地の心が分からにゃいけん。その天の心地の心という、その心を日月の心という実意を持って、私共が日々の生活の中に、天の心地の心を頂き、そして現していく生活を、金光教で言う信心生活というのである。そこから人間のいわば、助かる手立てが生まれてくる。こういうお話をね、例えばほんなら今日の七十八節を、まあ分かりやすく、ほんなら聞いて頂いた訳。
ほんならこの七十八節というものがです。本当に家繁盛子孫繁盛で、しかも代まさりでおかげの頂けれる教えだと頂いておるだけでも、これを行じなかったら、これは反古になってしまう。だからこの教えを良く分からせていただくために、ほんなら今日なら今日の御理解があるわけです。今日の御理解をほんなら、頂いただけでは、だからやっぱり私の言うたことが、何にもならない事になる。そこで今日から早速神の大恩を知るために、天の心を自分の心にしよう。
地の心を自分のものにしようと言う所に、ほんなら限りなく自分の手元のところから、美しゅうなろう美しゅうなろうという気になると言う事は、もう天の心になろうとすることである。黙って治めよう。もう今日からは黙って治めようという修行を始めるところから、もう地の心を頂こうと精進することになる。成そうと思えば子供でもなせるような、言うなら簡単なことをおろそかにしておったことに気が付いて、実意丁寧そこんところを乱れておる下駄があるならば、それも揃えさせてもらおう。
汚れておるなら拭かせても貰おう。なそうと思えば、子供でもなせれるような事を、早速今日から実行すると言う事なんだ。そこから天地の心が分かる。いうなら天地の大恩が分かる。神のおかげが分かる。そういう手立てを、日々繰り返させて頂くという事に、絶対間違いのない、人間がいよいよ幸せになっていけれる、そういう生き方からです、研かずにはおられない、改まらずにはおられない、これはもう限りがないこと。改まっていかなきゃいけない。
人間は知らず知らずのうちに、天地の機感に叶わない、お心に叶わない事を、言うたりしたりしておる。神の心が分からんからそういう結果になってくる。平気で悪い事をする。昨日はある人から、あの自転車を自転車泥棒をしたというお届けがあった。しかもここで、信心の稽古をしている人が盗ったというのである。そら本当か嘘かは分からん。けれども私はびっくりすると言う事よりもですね、人間には悪いいろんな癖があると言う事だやっぱり。人のものを盗っても平気でおれる人がおるのです。
今日なんかは用心せんとね、沢山の人が合楽の祭りであるから、また盗られるかも分からんよ。盗ると言う事をさほどに悪い事と思っていないもん。しかもまあそんな自転車まで。まいっときすると自動車でん何でん盗るごつなるじゃろ。それがあぁた方ん信心しよる人だと言うて電話が掛って来た。神の大恩が分からんから、そら例えばそういう極端な悪い事ではなくてもです。いうならもうこん位なこつは良か良かで、それが段々大きくなると人のもん盗ったっちゃ、こん位なこつはよかよかになってしまうわけ。
ですから本当に私は、人間の助かりと言う事をね。はあその人は人のもんでんごろごろ盗ったりすることが、助かりという風に思うとるかも分からんたい。金がない時人の金を盗りゃ自分が助かる。はあ助かると言う事は人の金を盗ることだと。はあどこか行きよったら、ちょっと歩いていくとは面倒くさいけん、そけ自転車があったけんちょいと乗っていった。それで途中で途中で一台は捨てて、一台は人が乗っていっとるちいう。二台盗っとる。だからやっぱし人のとでも盗っていきゃ助かりますわね。
だから助かると言う事を、そう言う様な事に考えておるようでは、まあ極端な話だけれどもです。人は一生懸命に働いておる、自分はぶらぶらしとると言った様な事を、自分な助かっておると思うておるような、不心得な人がやっぱあるかも知れん。そらあるのはねどういう不心得でもええて。人んとを盗らにゃおられんごたる悪い癖があるなら、あってもいいて。けれどもね本気で言うなら助かることのために、天の心地の心を分からせて頂きよるとです、もうそう言う事をもう、されんどころではなくてね。
改まっていかにゃおれんことになってくる。研かにゃおれんことになってくる。だから人間だからどういうほんなら、その悪い事を平気でしておると言った様な事もあろうかも知れんけれどもです。そこに教えを頂いて本当に、自分が助かりたいという願いを立てなきゃいけない。そして本当に人間が助かることのために、話を聞かにゃいけん。そして天の心地の心を分からなきゃいけん。
そして天の心、地の心を自分の心にして行こうというそれはさほどに難しいことではない。それをその気になると楽しゅうなって、有難うなって愉快になってくる。そういう愉快な道有難い道をね、体得して行こうと言うのが金光様の信心。しかもかって今までそういう手立てを、みやすう説いた聞いたこともなかったのを、合楽では合楽理念と称して、合楽理念をマスターして。
合楽理念の一つ行者になろうというふうに言われておるわけであります。私どもがです自転車泥棒じゃなくてもです、それに匹敵するような、例えば神様の嫌いなさる様な事を、平気でして折る様な事はなかろうかと、思うてみなければいけない。「神の大恩を知れば、無事達者で、子孫も続き身代も出来、一年まさり代まさりのおかげを受けられる。」そういうおかげの頂けれる道をです、私は助かりの道だと思います。
どうぞ。